テレビ朝日系のバラエティ番組『タモリ倶楽部』が、本日3月31日深夜(4月1日午前0時20分~)に最終回を迎え(一部地域を除く)、1982年10月のスタート以来40年半の歴史に幕を閉じる。

「お尻のタイトルバック」誕生秘話

『タモリ倶楽部』は筆者も好きで、番組初期こそ間に合わなかったものの四半世紀近くは見続けてきただけに、いまだに記憶に残る企画や場面は多い(そういう回を3年前に当「文春オンライン」で挙げてみたこともある)。最終回を前に、それらとともにひとつ思い出した作品がある。それは、ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが日本で撮った『東京画』というドキュメンタリーである。この映画には、ヴェンダースが東京で泊まったホテルのテレビで見た映像として、『タモリ倶楽部』のあのお尻のタイトルバックが出てくるのだ。

※ちなみに3年前の「文春オンライン」の拙記事はこちら https://bunshun.jp/articles/-/37590

ヴェンダースは『東京画』において、尊敬する映画監督・小津安二郎の作品の面影を求めて日本を訪れたものの、撮影当時(80年代)の日本にはとうにそんなものは失われていることに早々に気づく。そしてテレビにも「脅迫的で時に非人間的な映像」があふれ、「小津映画の優しく秩序ある映像」などもはや存在しないとして、象徴的に深夜のテレビで流れていた映像をとりあげたのだった。そのひとつが『タモリ倶楽部』のお尻だったというわけである。

この映画の公開は1985年だが、撮影自体はその2年前、1983年春――作中に花見の風景や、開園まもない東京ディズニーランドに行こうとする場面が出てくるのでおそらく4月――に行われたというから、『タモリ倶楽部』のスタートからまだ半年しか経っていない頃だ。

番組開始当初の『タモリ倶楽部』のタイトルバックには、ほかにも“濡れたTシャツ編”や“プール飛び込み編”があったが、結局、お尻のパターンに落ち着いたという。決着するまでにはまた、お尻にするか胸にするかという議論もあったが、スタッフにお尻好きが多く、なかでも同番組を立ち上げた制作会社・フルハウステレビプロデュース(現・ハウフルス)の創業者で演出家の菅原正豊の「お尻はかわいくて、エロティックで知性がある」との一言で決まった……という話もある(『アサヒ芸能エンタメ!』2003年8月号)。

『タモリ倶楽部』は「深夜の特異ゾーン」だった

当時のテレビ朝日のプロデューサー・斎藤由雄によれば、タイトルをつくってからクレームがつかないか少し心配したものの、《深夜の特異ゾーンということとだんだん話題になっていったので、まわりからそんなもんかなって認知され》、クレームもなかったという(『FLASH』1993年3月16日号)。タイトルバックのお尻は、その後、数年おきにモデルのオーディションをするなどして交代を繰り返しながら、テーマ曲の「ショート・ショーツ」(ザ・ロイヤル・ティーンズ)とともに番組終了まで引き継がれた。

番組が始まった頃は、日本のテレビがまだ24時間放送に移行する前で、深夜0時以降はほぼ未開拓の時間帯だった。前出のプロデューサーが「深夜の特異ゾーン」と言っていたのもそういう背景がある。しかし、その後、深夜帯にも人気番組が増え、けっして“特異ゾーン”ではなくなった。他方で、時代が下るにつれ、時間帯に関係なくテレビでエロを自粛する傾向も強まっていく。それは近年のコンプライアンスの強化から、より厳しくなっている。

この流れからすると『タモリ倶楽部』からもお尻が消えておかしくなかったはずだが、どういうわけか最後まで残った。当のタモリも昨年ゲスト出演したラジオ番組で、昨今の状況からすれば『タモリ倶楽部』でお尻を出すのは「ありえないですよ」としつつ、「あれはどういうわけか、『まあいいか、あの番組だけは』ってことで、長年やってるから許されてる」と語っていた(ニッポン放送『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』2022年10月22日放送分)。

タモリが語った「番組が始まった経緯」

『タモリ倶楽部』のスタートは、フジテレビ系で「森田一義アワー」と冠した昼12時台のバラエティ『笑っていいとも!』が始まったのとほとんど同時だった。それまで夜のイメージの強かったタモリだが、『いいとも!』の人気が高まるにともない、日本のお昼の顔となっていく。そのなかで『タモリ倶楽部』は、彼が肩の力を抜いて、ときにいかがわしかったり、マニアックだったりといった素に近い面を出せるホームグラウンドであり、解放区でもあったといえる。そもそもこの番組が始まった経緯を、タモリ本人は次のように語っていた。

《ウチ(田辺エージェンシー)の社長(田辺昭知氏)の発想で、テレビはビチビチと間を詰めた密度の濃いものが普通だったけど、逆に深夜は薄いスカスカな番組を作ろうということが、そもそもだったんだ。ただ、通常だと番組にならないような、まぁそういった意味では画期的であるし、スカスカなところが私に合ってね、やる気のないダラダラするのがピッタリだったと思います》(『FLASH』1993年3月16日号)

スカスカかどうかはともかくとして、間をびっちりと詰めない、ゆるい雰囲気は40年間ずっと変わらなかったこの番組の神髄だ。ゆるい雰囲気は低予算のせいでもあるのだろう。収録でも、お金のかかるセットを組まなくてもいいよう、テレ朝局内のスタジオは避けて廊下や玄関を使い、屋外ロケもおのずと多くなった。「毎度おなじみ流浪の番組」というタモリが毎回冒頭で口にするフレーズは、もともとはそんな事情を指したものである。

タモリが番組スタッフにぼやいた瞬間

2014年までは月~金に『いいとも!』の生放送があるタモリのスケジュール上の制約もあり、ロケも東京周辺にほぼ限定された。一度、日帰りで台湾ロケを敢行したことがあったが、あまりの強行軍に、普段はほとんど愚痴をこぼさないタモリが「スタッフは先に行っていて日帰りじゃねえだろ」と珍しくぼやいたという逸話が残る。

90年代後半以降、バラエティ番組で多用されているワイプやテロップを『タモリ倶楽部』ではほとんど使わないのも低予算ゆえである。今年2月に放送された回で、番組のテロップづくりがとりあげられたことがあったが、このとき、試しに画面上へ現在のバラエティ風にテロップを入れてみたところ、いかにもうるさく、『タモリ倶楽部』のシンプルさを改めて実感させた。

テロップ一つとっても、『タモリ倶楽部』がいかにテレビの主流から外れた番組づくりをしているかがうかがえる。実際、番組で長らく演出を担当したハウフルスの山田謙司は、ほかの番組がまずターゲットを設定した上でつくられているのに対し、この番組では自分たちのやりたいこと、それもほかがやらない企画をあえて選んでいると、かつて述べていた。それだけに素材に独自性があるかどうかが最重要ポイントであり、たとえ人気が出た企画でも、ほかの番組で真似されたら面白みが半減するので、もう『タモリ倶楽部』では使わなかったという(『Diamond Visionary』2006年10月号)。初期には、昔流行った名曲・珍曲を紹介する「廃盤アワー」という人気コーナーを他局に真似され、スタッフを憤慨させたことがあった。

「空耳アワー」が“復活”したわけ

近年の『タモリ倶楽部』は、本筋のテーマだけで構成されてきたが、かつてはさまざまなコーナーがあいだに挟まれていた。初期には、タモリと女優の共演によるメロドラマ(というのももはや死語か)のパロディがあったり、タモリと山田五郎が女性のお尻を品評する「名尻鑑賞・今週の五つ星り」などお色気物のコーナーも多かった。

一方で、視聴者投稿によるコーナーも連綿とあった。たとえば、街中にあるシュールな建造物などを、視聴者からの情報も頼りにしながら、タモリとともにマンガ原作者の久住昌之とカメラマンの滝本淳助が訪ねる「東京トワイライトゾーン」は人気を集め、単行本化もされた。余談ながら久住は、マンガ『孤独のグルメ』の原作者として、のちのドラマ版では番組終わりのミニコーナーに出演している。このドラマは、シーズン5以降は金曜深夜の放送となり、奇しくも『タモリ倶楽部』の裏に回ることになった。

このほかにも、数々のコーナーが生まれては消えていった。そのなかにあって番組名物となり、コーナー終了後も不定期ながら企画として残ったのが「空耳アワー」である。もともとは、同じ映像でも音楽をつけるとまったく違うものになるという別タイトルのコーナーのなかで、洋楽なのに歌詞が日本語のように聞こえる曲を紹介したところ好評だったため、企画を変更して生まれたという(『週刊女性』2007年10月30日号)。そんな「空耳アワー」も、マンネリになるからとの理由で一度終了したが、後継のコーナーがどれも数回で自然消滅し、復活したという経緯がある。

「タモリがマニアックになりすぎないように」

『タモリ倶楽部』では、2000年代に入るあたりから、鉄道や地理などタモリの趣味に寄せた企画が増え始める。それまでタモリ自ら企画を出すことはほとんどなく、「東京の山登り」など提案した数少ない企画もことごとく視聴率が取れなかったようだ。彼の現場マネージャーを長らく務めた前田猛は同番組に対し「タモリがマニアックになりすぎないように」と注意を怠らなかったという(片田直久『タモリ伝』コアマガジン)。きっと、マネージャーはタモリが凝り性であることを重々承知しており、あまりのめり込むと番組の進行を妨げかねないと考えていたのではないか。

実際、マニアックなテーマの回では、タモリが進行も忘れて夢中になる姿がよく見られた。しかし、この頃には、視聴者はそんなタモリをむしろ面白がるようになっていた。おかげで視聴率もよくなったという。

ここまで書いてきたように、ゆるさが神髄の『タモリ倶楽部』だが、長年見続けていると、ある種の人間ドキュメンタリーのような印象を抱くこともある。ロックバンド「トリプルファイヤー」のボーカル・吉田靖直をフィーチャーした一連の企画などが、それにあたる。やる気があるのかないのかよくわからない吉田のキャラはまさにこの番組にぴったりで、これまでに、どんなアルバイトをしても長続きしない彼のため、その打開策を出演者たちが講じたり、昨春放送された回では、10年あまり居候してきた知人宅からの引っ越しの模様が伝えられたりした。タモリ自身、福岡から上京したばかりのデビュー前後、マンガ家・赤塚不二夫のマンションに居候した経験を持つだけに、吉田のかなり常識外れの居候話を聞いてあきれつつも、どこか温かく見守っているようでもあり、興味深かった。

番組タイトルに「倶楽部」とつく理由

『タモリ倶楽部』に触発されてか、その後、『マツコの知らない世界』や『アメトーーク!』など、さまざまなマニア(後者は芸能人限定だが)が登場してトークを繰り広げる番組がいくつか現れた。だが、これらの番組ではマニアにもそれなりの話術や個性が求められるのに対し、『タモリ倶楽部』で重要とされるのは語る人ではなく、あくまで語られる対象のほうである。たとえトークがつたなくても、タモリは対象となるものの面白さをちゃんと引き出してみせた。それもタモリがどんな相手とも対等に、一緒になって楽しむことのできる稀有な芸能人だからこそだろう。それは番組のタイトルに「倶楽部」とつく理由にもつながっている。

話を冒頭に戻せば、ヴェンダースが1980年代、小津映画に描かれた秩序ある風景を侵す存在として(偶然ながら)とりあげた『タモリ倶楽部』だが、40年もの歳月を経て、この番組自体が日本のひとつの風景となった。最終回をもって、その風景が見られなくなるかと思うとやはり寂しさを禁じ得ない。

かつて『タモリ倶楽部』では、タイトルロゴに「帰ってきた」と入っていた時期がある。これは、ハウフルスが『タモリ倶楽部』の制作から一旦離れたのち、再び復帰したことから入れられた。この前例にならい、年に1度の特番でもいいから『タモリ倶楽部』がいずれまた帰ってくることを、ぜひお願いしたい。

(近藤 正高)

タモリ氏 ©文藝春秋

(出典 news.nicovideo.jp)

タモリ倶楽部が最終回を迎えるというのは寂しいニュースですね。40年もの間、ゆるい空気で視聴者から愛され続けた番組だけに、今後の土曜日が少し寂しく感じるかもしれません。

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