元テレ東社員が明かす「セクシー田中さん」改変の驚愕な実態「テレビ業界の腐敗を暴露」
昨年10月~12月に放送されたテレビドラマ「セクシー田中さん」(日本テレビ)の原作者で漫画家の芦原妃名子さんが亡くなった。芦原さんは「マンガを大きく改編したプロットや脚本が提出されて(いた)」などと、ドラマ化をめぐるトラブルをSNSに投稿していた。なぜテレビ局は、原作者の意に沿わない改変を行ったのか。テレビ東京でドラマ・プロデューサーを長く務めた、桜美林大学教授の田淵俊彦さんは「テレビ業界の『ドラマ偏重主義』にトラブルの一因がある」という――。

■「セクシー田中さん」をめぐる“不幸な”事件の2つの原因

セクシー田中さん」の原作者でマンガ家の芦原妃名子氏のご冥福をお祈りするとともに、関係者の方々には謹んでお悔やみを申し上げます。

この事件が起こった直後に日テレから出されたコメントには耳を疑った。自己防衛としか思えない言葉が並んでいたからである。自己防衛をする前に、することがあるのではないかと憤りを感じた。それは昨年2023年の3月にテレビ東京を退職するまで、私もドラマのプロデューサーをしていたからである。

同じクリエイターとして、またドラマやテレビ局の現場をよく知る者として、テレビの現状やドラマの実状を明らかにしながら「今回の“不幸な”事件がなぜ起こってしまったのか」を分析してみたいと思う。そうすることが、亡くなった芦原氏や事件に巻き込まれた当事者の方々のためだと考えている。

私は「“不幸な”事件」と述べたが、その表現がもっとも正しいと感じている。それは今回の事件は、以下の2つの大きな原因があると確信しているからだ。

① 「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」
② コミュニケーションの断絶

■テレビ局で進む「ドラマ依存」

まず、①「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」から検証してみたい。事件の経緯を、芦原氏のブログからの抜粋で簡単に整理してみる。芦原氏は「ドラマ化するなら、『必ずマンガに忠実に』」や「マンガに忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく」と述べ、「原作者が用意したあらすじやセリフは原則変更しないでいただきたい」と当初から主張していた。

しかし、「毎回、マンガを大きく改編したプロットや脚本が提出されて」いた。そして、こうしたやり取りが何度も繰り返されたため、最後の部分の9話、10話については自身で執筆することになったと、脚本家を差し置いて自分が執筆することになった理由を記している。

これらの経緯が事実であるとすれば、「なぜテレビ局は、原作を改変してまでドラマを制作しようとしたのか」という疑問が浮かぶ。この問題の根源には、私が自著『混沌時代の新・テレビ論』で指摘したように、現在のテレビ業界の「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」があると考えている。

■「採算の悪いコンテンツ」を「ドル箱」に変えた見逃し配信

近年、テレビ局はドラマ制作に躍起になっている。ドラマはほかの番組ジャンルより格段に制作費がかかる。そのため少し前までは費用対効果が低いと考えられてきた。だが、いまドラマはテレビ局にとって「採算性が悪いコンテンツ」ではなく、「ドル箱」とも言える重要コンテンツに変わろうとしている。

その可能性を大きく裏づけたのが、民放公式テレビ配信サービス「TVer」におけるドラマの再生数の実績である。最新の2023年10~12月期の総合番組再生数ランキングでは、上位10位に入っているバラエティは7位の「水曜日のダウンタウン」だけでそのほかはドラマの独占状態である。「セクシー田中さん」も5位にランクインしている。

また、上位6作品が総再生数2000万回以上を記録し、ドラマの快進撃が目覚ましい。地上波中心のビジネスでは赤字であったドラマは、配信によって“日の目を見る”ことができたコンテンツなのである。

海外マーケットでも日本のドラマは熱い視線を浴びている。毎年、フランス・カンヌで開催される世界最大級のテレビ見本市MIP(春はMIPTV、秋はMIPCOM)では、日本の経済産業省、総務省、文化庁の後押しもあって、多くの日本のドラマが世界中のバイヤーから買われている。そんな現状からいま、テレビ局はドラマ多産化を推進しているのだ。

■「ドラマ偏重主義」が歪み、ひずみを生み出す

直近の2024年1月クールで放送の各局(系列制作を含む)「プライムタイム」と「深夜枠(23時以降)」の連続ドラマの数を挙げてみる。前者が「プライムタイム」で後者が「深夜枠(23時以降)」である。

NHK 3+0=3枠
日テレ 3+3=6枠
テレ朝 4+4=8枠
TBS 3+2=5枠
テレ東 1+8=9枠
フジ 5+2(FODの再放送を入れると3)=7(FODの再放送を入れると8)枠

全局足すと、なんと38(FODの再放送を入れると39)枠にも至る。

そしてそのドラマ多産化現象は、「ドラマ偏重主義」を助長している。当然そこには、「歪み」や「ひずみ」が生じてくる。

各局の制作現場は原作探しや、主演キャストの押さえ、脚本家の確保、スタッフィングの調整に日々追われることになるからだ。私がプロデューサーをやっていたドラマでは、制作会社が見つからずに一時期は企画がポシャりかけたこともあった。

特に、原作やキャスト、脚本家に関しては激しい争奪戦が繰り広げられる。これも自著で詳しく述べているが、そのため主演キャストは局と有力芸能プロダクション間の「握り」によって数クール先まで「ベタ置き」されるという状況が生じてくる。

脚本家においても同様だ。優秀な脚本家は少ない。ものすごいペースでドラマ制作を進めなければならない状況下においては、大御所で手間のかかる脚本家は厄介なだけだ。ドラマ多産化の流れの中で、“使い勝手のいい”脚本家が重用されるのは自然の淘汰(とうた)である。

■テレビ局が重用する「脚本家」と「原作者」

では、「“使い勝手のいい”脚本家」とはどんな脚本家なのか。

それはズバリ、局やプロデューサーの都合を聞いてくれる脚本家のことだ。

だが、“都合を聞いてくれる”というのは、“言いなり”という意味ではない。信頼関係を築き、お互いを信じているからこそ、その時々の事情を瞬時に理解して、“適当に”対応してくれるのである。プロデューサーはだいたいそんな脚本家とタッグを組むことが多い。私にも何度もタッグを組んだ脚本家が何人かいた。

しかし、原作者に関しては少し事情が違う。プロデューサーが企画の際、原作を選ぶのは「その作品がおもしろいか」や「売れているか」「人気があるものなのか」など“作品本位の”理由である。脚本家の場合とは違って、扱いやすさや言うことを聞いてくれるといった“人物本位の”基準ではない。

だから、今回の芦原氏の「ドラマ化するなら『必ずマンガに忠実に』」や「マンガに忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく」という要望や、「原作者が用意したあらすじやセリフは原則変更しないでいただきたい」という主張は、最初の段階で現場の制作者たちに「厄介だなぁ」という印象を与えてしまった可能性があると推察する。

私自身もそういった体験をしたときに、「脚本家やわれわれプロデューサーに任せてくれたらいいのになぁ」と感じたことがあるからだ。

■テレビ局と原作者のボタンの掛け違いが生まれる背景

私たち映像クリエイターは映像のプロという自負がある。もちろん、原作者をリスペクトしているし、原作を尊重もする。しかし、原作の「二次元の世界」と映像の「三次元の世界」は違うと自認している。次元を超えて原作の面白さや素晴らしさを実現するのが役目だと確信しているからだ。

だが、同じような自負とプライドが芦原氏側にもあった。今回の場合は、こういったように互いの「認識の違い」というボタンを掛け違ったのと同じような状況で制作が始まってしまったことが大きな原因であると指摘したい。それが、私が最初に「“不幸な”事件」と述べた理由であり、この事件の二つ目の原因である②「コミュニケーションの断絶」につながる要素となっている。

私もこれまでに出演者やスタッフ間でのコミュニケーションの疎通が最初の段階からうまくいかずに苦い思いをしたことが数多くある。あるときは、最後までやったが惨憺(さんたん)たる作品になってしまったこともあるし、途中で空中分解してしまったこともあった。

今回の事件を受けて、記者会見で松竹、東宝、東映などの映画会社の社長がコメントをしている。彼らが述べているように「原作モノ」と言われる原作をベースにするドラマ作品は「原作の素晴らしいところを生かしていくのが大前提」なのは当たり前で、「プロデューサーはその作品をどう表現するか、作者の先生と話をしていくのが原則」なのも重々承知している。

「原作を映像化することは、原作者の方の許諾がないとできない」のも当然。しかし、「原作の方とわれわれの方向性が違う時は、コミュニケーションを取って互いに了承する」「どう映像化するかはクリエーティブな部分で合意を重ねてやっていく」ことにまで至らなかったのが今回の背景にあるのだろう。

そこには先に述べたような「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」が大きく影響している。

■テレビ局の「収益化偏重」に振り回される制作現場

テレビ業界はいま「戦国時代」にある。「映像ビジネス」の覇権と生き残りをかけた配信との激しい攻防戦の真っただ中だ。地上波放送枠での収入が見込めないテレビ局にとって、「マネタイズ」にパラダイムシフトを強いられるのは、致し方ないことだ。

だが、その「しわ寄せ」は現場にゆく。配信での二次利用をにらんだドラマ多産を求められる中で、制作費削減は留まることを知らず、これまで以上にペースを上げて制作を進めなければならない。原作通りの映像化をやっていては期限や予算にはまらないというのが正直なところだろう。

実際に、原作で設定されている主人公の職業や仕事場を変更することは序の口である。カネがかかり過ぎるという理由で、サスペンスドラマの犯行の手口が変わることも日常茶飯事だ。そこにあるのは、「マネタイズ邁進」というテレビ局の方針と、それに逆らえないテレビ局社員のサラリーマンとしての悲しい性(さが)である。

以上のようなテレビの現状と現場の事情の中で、「制作者側」と「原作者側」がしっかりと会話をするなどのコミュニケーションを取る時間と余裕がなかったことが、今回の事件の一番の原因ではないかと私は考えている。

いや、もしかしたら制作者側は「しっかりとコミュニケーションは取れている」と思っていたのかもしれない。改変においても「ちゃんと原作者のOKがもらえている」と信じ込んでいたのかもしれない。だが、ハラスメント事案と同じで、コミュニケーションの断絶は相手がそう思えば「そうだ」ということになってしまうのだ。

では、いったいどこにコミュニケーションの断絶が起こったのか。

■なぜ「コミュニケーションの断絶」が生じたのか

今回の当事者となる登場人物を整理してみる。

「制作者側」には、制作の最高責任者であるプロデューサーを筆頭に監督、脚本家がいる。そして「原作者側」は、原作者と出版社の担当編集者である。プロデューサーは監督や脚本家と意志疎通をおこなうが、通常、監督や脚本家が原作者と直接、会話をしたり意思疎通したりすることはない。つまり、制作者側と原作者側の意思疎通は、プロデューサーと原作者の間でおこなわれることが多いのだ。

原作者によっては「制作者側」と直接交渉をするのを厭う人もいるので、その場合は出版社の編集者が介在することになる。私の経験的な肌感覚では、小学館や講談社のようなマンガ雑誌を抱えている大手は、映像化の契約も含め出版社が代理人となることが多い。それは映像化によって出版物の販促を図れるという理由と同時に、出版社や編集者が作者ケアをちゃんとやっているというアピールの意図もある。

以上のような構図だと、どういった歪みが生じるだろうか。原作者の意図や思いが監督や脚本家に伝わらない、もしくはその逆が起こる可能性があるということだ。

■脚本家もコミュニケーションの断絶の「被害者」

今回の場合も、芦原氏はブログで「脚本家さん、監督さんといったドラマ制作スタッフの皆様と、私達を繋ぐ窓口はプロデューサーの方々のみでした」と述べている。特に今回は出版社の編集者が介在していたということだから、私が過去に同じようなケースで遅々としてやり取りが進まずイライラすることがあったように、少なからずコミュニケーションの疎通を滞らせる要因になっていたと考えられる。

今回の脚本家・相沢友子氏は映画『重力ピエロ』『プリンセストヨトミ』などの脚本も手掛ける実力派であり、マンガ原作のドラマ化も「鹿男あをによし」や「ミステリと言う勿れ」など個性が強い主人公が登場する作品を数多く手掛けている。原作者がどれくらい自分の作品に思い入れがあるか、その世界観を大切にしているかはよく理解していたはずである。

ネットなどでは脚本家を誹謗(ひぼう)中傷する投稿が見られるが、「今回のことでは、脚本家も大変傷ついているだろう」といったことを想像するべきだ。相沢氏は昨年末、自身のインスタグラムに「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」などと投稿し、SNSで炎上する騒ぎとなったが、脚本家も、テレビが生み出したコミュニケーションの断絶という状況の「被害者」なのだ。

一点あえて指摘するとすれば、脚本家とプロデューサーの三上絵里子氏とのタッグが初めてだったということだ。ここに大きなターニングポイントがあったのではないかと私は直感している。

前述したように、プロデューサーと脚本家がタッグを組むキモは、“都合を聞いてくれ”“使い勝手のいい”間柄になるほどまでに信頼関係が築けていることである。いまのテレビのドラマ現場のスピード感のなかで、編集者を通じて聞いた原作者の要望の微妙なニュアンスを初めて組む相手に的確に伝えられるだけの時間と余裕があったかどうか、それは私にもわからない。

■テレビ局が「原作モノ」と言われるドラマを多産する理由

では、今回のように原作者側とコミュニケーションを取る手間やトラブルに発展する可能性があるにもかかわらず、どうして実際には「原作モノ」と言われる原作を基にするドラマ作品が多くなるのか。

一言でいえば、これは創り手側にとって「安心」だからだ。

原作がある作品は、ある程度視聴者が「どんな作品であるか」を知っている。ヒットしたマンガや売れた小説などの場合には、その人気を「アテ」にすることもできる。また、デジタル情報化によって視聴者側の想像力が著しく損なわれているいまの時代、もともと形があってイメージを提示できている作品はアピールする力も強いと考えられる。

「既知のもの」に人間は共感しやすい。自分が好きだった原作の主人公を演じる俳優に共感しやすいというのも自然のことだ。その俳優を知っていたり好きだったりすれば、さらに共感度は高まる。

そして原作モノにはもうひとつ、創り手側にとっての大きなメリットがある。

それは企画を通しやすいということだ。「想像力が欠如している」のは、視聴者側だけではない。テレビ局の企画を選定するセクションの人間も同じだ。私が企画提案をする際に、「なんでそんなことも想像できないのか」とイライラしたり、あきれたりすることも一度や二度ではなかった。

「わかりやすく」「万人受けがする」作品のオンパレードを誰が見たいと思うのか。そんな相手に「どんな作品か」を説明したり提案したりするときに、「ヒット作の○○です」や「ベストセラーの○○」と言った方が通りがいいのは自明のことだ。

そして「原作モノ」のなかでも、マンガ原作は特に需要が大きい。

ドラマのプロデューサーは少しでも話題になったり売れたりしたマンガはほとんど読んでいる。そして深夜のドラマ枠などの企画募集の折には、その8割がマンガ原作の提案で占められる。マンガに強い小学館や集英社の原作には、同時に何件も問い合わせや「ドラマ化したい」というオファーが殺到し、映像化権は競合する。

■ドラマ化で原作者がいちばん恐れていたこと

上記のようなことは「原作モノ」、特にマンガ原作のメリットだが、メリットがあればデメリットもある。

知っている主人公や筋書きに共感しやすいのは前述した通りだが、裏返せばそれだけイメージがついてしまっているということだ。世界観やイメージなどは原作と映像化されたドラマの間に齟齬(そご)が生じると、大きな反感や反発を生みやすい。特にマンガ原作の場合は、一度「ビジュアル化」されているので、それを再度映像化した際のイメージが違えば、そのギャップはさらに大きいものになる。今回の芦原氏はその点を一番恐れたのではないだろうか。

もうひとつ、私は昔といまのドラマ視聴の「環境の変化」という点を指摘したい。昔は録画でもしない限り、放送された番組を再び見るには「再放送」のタイミングを待たねばならなかった。しかし、いまは配信がある。その気になれば何度でも繰り返し視聴することができる。

一度見て気にならなかった部分やアラも気になってくる。同時に、演者への評価も厳しくなる。技術の進歩によって画質が良くなっている点もあるだろう。「ちょっと原作と違い過ぎないか?」であったり「あの部分は許せない」といった指摘が出てきたりすることもある。制作者や演者のハードルがどんどん高くなるというストレスが生じるのである。

以上のことを踏まえて、この稿の最後に私の提言を述べたい。テレビのドラマはもっと「オリジナル作品」を増やすべきである。

■テレビ局の安易な「原作依存」という大問題

今回のような悲劇が起こることを、私は自著『混沌時代の新・テレビ論』のP256で示唆している。いま、テレビ局のドラマ・プロデューサーの机の周りには、マンガ原作のコミックが山積みになっている。そこには、小説のような活字だけの原作はない。その状況を嘆かわしいと思うのは私だけだろうか。

マンガは作者の頭の中を可視化したものだと考えている。一度「クリエイティビティ」をビジュアル化したものを、再度、映像化するときには、もっと慎重になるべきではないだろうか。

そう考えている私は、マンガ原作をドラマ化する企画書を書いたことがない。もちろん、そういった手法が得意なクリエイターもいるし、「実写化不可能」と言われるマンガに挑みたいという気持ちも否定しない。だが、クリエイターの「原作依存」には警鐘を鳴らしたい。

安易な理由で「原作ありき」で企画を考えるのはやめた方がいい。そういうことを繰り返しているプロデューサーには「いったんそこから離れてみたら」とアドバイスをしたい。原作があれば「安心」という理由は、必ず「慢心」を招く。

映像化を許諾した芦原氏には、マルチメディアによって一人でも多くの視聴者に自分の作品に触れてほしい、知ってほしいという思いがあったに違いない。そこには、出版社の後押しがあったかもしれない。だが、芦原氏のブログを読んでいると、必ずしも手放しでドラマ化を歓迎していたわけではないことが読み取れる。芦原氏が感じた不安は私にはよくわかるのだ。

■このままでは悲惨な出来事が繰り返される

「セクシー田中さん」のドラマ自体はよくできていた。演者も素晴らしかったし、美術や装飾、衣装、撮影や演出もよかった。一部には演者をバッシングするサイトも見られるが、それは明らかに門違いだ。映像化に関して「やるべきではなかった」とは思わない。ただ私は、いいマンガ原作があると「何でもかんでもドラマ化しようとする」という風潮から脱するべきだと提言しているのである。

「映像化が可能か」「映像化がふさわしいか」という吟味は必要だし、吟味をしたうえで、「このマンガの世界観には手を出すのはやめよう」という決断も必要なのではないかと思う。それがその作品へのリスペクトというものではないだろうか。

私は来るべき配信時代を見越して、2018年からオリジナル脚本によるドラマ制作を積極的におこなってきた。その数は20本にのぼる。そんな経験から、今後はさらにオリジナル作品を増やして配信の場をうまく利用してゆくということがテレビ局の活路となると提言したい。

ドラマは配信時代を迎え、ドル箱コンテンツとなりつつある。しかし、今後、同じようなドラマばかりが増えるという「ドラマのステレオタイプ化」が進み、配信においてドラマが飽和状態になったときに生き残ってゆけるかどうかを左右するのは、その作品のオリジナリティである。原作者との交渉がうまくいかない、もめ事が起こったなどのトラブルが発生するとその作品は配信ができなくなってしまったりする。それどころか、今回のような人の命に関わるような悲惨な出来事を引き起こしてしまう。

■「テレビの腐敗」を止める薬はあるのか

マネタイズやドラマ多産化の流れはますます加速するだろう。そうなると時間やカネがないという理由でコミュニケーションの疎通がうまくできないことも増えてくる。その相手は、監督などのスタッフ、原作者、脚本家などいろいろだ。監督はいなければ制作は成り立たない。脚本も必要だ。しかし、原作はなくとも「オリジナル」で作れば成り立つはずだ。

オリジナルの脚本をゼロから作り出すことは大変な労力が必要である。元々あるものを活用するのではなく、自らアイデアをひねり出さなければならない。しかし、これにはテレビ局の生き残りがかかっている。何が何でもやり遂げなければならない。

他人の模倣や焼き直しではなく、自分がいままでにないまったく新しい映像作品を生み出してやるのだという気概をもって、クリエイターはいまの逆境に立ち向かわなければならない。

その気持ちこそが、いま始まっている「テレビの腐敗」を止める薬なのだ。

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田淵 俊彦(たぶち・としひこ)
元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授
1964年兵庫県生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、テレビ東京に入社。世界各地の秘境を訪ねるドキュメンタリーを手掛けて、訪れた国は100カ国以上。「連合赤軍」「高齢初犯」「ストーカー加害者」をテーマにした社会派ドキュメンタリーのほか、ドラマのプロデュースも手掛ける。2023年3月にテレビ東京を退社し、現在は桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授。著書に『弱者の勝利学 不利な条件を強みに変える“テレ東流”逆転発想の秘密』(方丈社)、『発達障害と少年犯罪』(新潮新書)、『ストーカー加害者 私から、逃げてください』(河出書房新社)、『秘境に学ぶ幸せのかたち』(講談社)など。日本文藝家協会正会員、日本映像学会正会員、芸術科学会正会員、日本フードサービス学会正会員。映像を通じてさまざまな情報発信をする、株式会社35プロデュースを設立した。

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「セクシー田中さん」日本テレビ公式ホームページより

(出典 news.nicovideo.jp)

𠮷川晃司のコメント

元テレ東社員が指摘する「テレビの腐敗」という根本問題によれば、番組制作の方針や視聴者志向が優先され、放送業界の常識や倫理観が薄れているという指摘があります。この状況下で日本テレビが「セクシー田中さん」を改変したことは、一つのケースですが、多くの人々が求めている番組の質や内容を考える上で重要な議論を引き起こすものといえるでしょう。

<このニュースへのネットの反応>

数字が欲しくて原作人気にあやかる一方で原作*が常態化している矛盾

プレオンとは思えない内容だったいい意味ででもテレビの腐敗はもう止められないというか腐りきったって感じ

いつまでも偉そうにふんぞり返ってるテレビ側の人間が異常なだけだろ

なぜテレビ東京は「けものフレンズ」を呪物に改変したのか…  いや…、そんな物は存在しなかったな…

知名度だけよこせ、あとはこっちで好きにやるからって日本人の行動じゃない。

プレオンといえど、『ちゃんとした著者』が書けば良い記事が出せるんだな…(棒 こういうのでいいんだよこういうので

TVオリジナルドラマを作れば良いだけ。面白いかは知らん

テレ東もコンテンツそのものを改悪した事をお忘れで…?

テレ東は孤独のグルメみたいな良改変もあるからな、一応。他のテレビ局は知らん。

〇〇と言う作品が見たいのに〇〇の二次創作なんて出したら顰蹙買うにきまってるんだよなぁ

料理の基礎ができてないからレシピ通りに作ればいいのに、『個性を出したい』とか訳わからんこと抜かして調味料足しまくって、結果ゲロマズにするようなもん。そんな個性なら一生どっかに仕舞って置け

原作を好き勝手に改悪した挙句、漫画家先生を軽んじて侮辱し、挙句に卑怯な工作活動を行って集団で原作者を追い詰めた末にアカウント非公開にして逃亡した脚本家達が被害者面してて驚くんだけが?wアニメ化でも映画化でもヒット作には原作に対する敬意が有り愛が有るから原作ファンの心を揺さぶる名作になる。丁寧な仕事も出来ない癖に偉ぶってて傲慢だw呆れるw言い訳ばかりの韓流脳w

脚本家も被害者になるパターンは勿論あるのだろう だが今回の脚本家は絶対加害者側だ

加害とはいうが、そのドラマ偏重主義なる奇怪な情勢に傾いたのも観客がそう望んでいるからだろうが。観客全員に芸術を愛する審美眼が備わっているなら、なろうなんてそもそも生まれねえよ。なろうなんてタイトルや内容変えられまくりだろうが。

原作*でもあるけど原作ファン*でもあるんだよな

脚本家なんて原作ありきの二次創作作家やからな、身の程知らずにも程があるで、まぁ業界人とかクソ溜めのクソだって世間に喧伝出来てよかったと思うよ、局の対応も初動からクソまみれやったしな。

いっそ中露北が「我々を独裁国家と罵る自称民主主義国家諸君はこのような業界の無法を認めている」と共同声明出したらどう?BPOすら昨日しないんじゃ世界世論と国際連盟巻き込むぐらいじゃないと

×昨日 → 〇機能

面倒であったとしても「原作に忠実に」という契約を結んだのに反故にした事が問題で、「原作に忠実に」なんだからコミュニケーションが取れていようと改変は良しとしないでしょ。遅々として進まなくなって苛つくのは原作者側には関係ないことだし、それでSNSで誹謗中傷されたらたまらんよ。

作品のドラマの権利は欲しがりつつもその作家を厄介だと思っているとか性犯罪者のそれだな。娘は穢したいけどそれを守る親が厄介って言ってるのと変わらねぇ

この記事内では脚本家もテレビ局やプロデューサーの都合に振り回される被害者って扱いだけど、原作者を攻撃した時点で被害者扱いはできんのよね。それこそ原作者の暴露が攻撃なら、脚本家も自殺でもしない限りはね

原作*はテレビ局の常。いっそのこと原作者も「ドラマ化・映画化したいなら原作まるっと売ります。お好きにしてくだい、価格は1000億円」とか言ってやればいいのに。

他人のフンドシで相撲どころか脱*してますがな

何か勘違いしてるかもしれんが原作者は実写化のオファーなどしない。それをやるのは出版社だ。出版社はTV局と契約して作品の使用権を譲渡する。鳥山明がドラゴンボールの実写化に反対しようとそれを止める権利はない。原作者も改変が前提の実写化に首を縦に振るはずもない。原作の枯渇というが、そもそもTV局に原作を売り込んで供給しているのも出版社だ。

そしてTVの視聴率など年々低迷している。誰も見ないTVのために原作がいたずらに消費され、変貌してゆく。それを嘆くのはいい。だが、TV局も競売で莫大な放送権を獲得してる以上、それが資本主義の原則に則って人倫がないがしろにされるのはわかりきったことだろうが。それとも資本主義を否定するつもりなのか?

オリジナルのドラマを作るよりも、原作ありの方がドラマが作り易いんだろ。ただ、今回の件は『原作者の芦原氏はセクシー田中さんの実写版を作る際に「原作により忠実に作ってほしい」「あらすじやセリフはこちらで用意します」等々の約束をした。にも拘らず、脚本家は約束を破った』が事の発端なんだよな。改変は元より、約束を破るのは流石にアカンわ。

だが最終的には原作者自らが脚本を書いて納得のいく作品になってるはず。あと現場で改変されるのは舞台裏では日常茶飯事。これがダメならこの世のありとあらゆる作者の意に反する作品を我々は喜んで視聴しているということになるし、作者の意に沿っているから収益率が上がるなんてことはない。それを改善したいというのなら業界の体質をDNAレベルで変えなければならん。

むしろ、原作通りにやってるドラマって何があったっけとしばらく考え込むレベル

組織対組織で話が進むべきなのに気が付けば組織対個人になってるのも問題。プロ野球などで乱闘が起きて相手チームはわさーっとベンチから走りだしてるのに、自分のチームはベンチでボケッとしてたらそんなチームとやってられんてなる。

改悪してるのは漫画家より能力があると勘違いした脚本家や視聴率目当てで原作もろくに知らない・調べないテレビ局側の腐敗とおごりに過ぎない。そういうやつらは根絶やしにしてほしい。

TV局も顧客の要求に従って作品を提供してるにすぎない。それを改善したいというのなら顧客の体質そのものが変わらなければ何も変わらん。芸術的志向の高い原作を芸術的に作ったとして顧客がそれを理解できなければ作る意味そのものが消失する。そしてTV局が視聴率に拘るのはそもそもスポンサーを満足させるためだぞ。どうすればいいんだ?

やりたい放題に作品を作りたいならオリジナル作品でやれ。原作にリスペクトなんかないくせにタイトルだけ借りて客寄せして中味は別物なんて詐欺行為をいい加減やめろ。

だったら自分のとこの作家の作品を売り込んでいる出版社は何なんだって話になる。それから作品が良質になるか、それとも悪質になるかは運次第だ。誰が将来の名監督の出現を予見できるというのか。

結局100%制作側の都合でユーザーの大半はオリジナル展開なんか望んでない それが全て

いやオリジナル展開が受ける場合もある。一概に否定できん。個人が否定するのは勝手だが。

フェミニストの親玉その1だからさ

どんだけ「テレビ業界の事情」を話そうと、原作改変の言い訳になどならん。原作者の許可が出るまで作り直し、OKを貰って初めて1話目を放送、貰えなければボツにする。他人の創作物を借りるならそん位のリスクを負うのが当然だろ。

そして原作者の意に沿って脚本を任せてその通りに作ってる。確執はあっただろうが、原作者が納得いってない根拠になってない。

『改変においても「ちゃんと原作者のOKがもらえている」と信じ込んでいたのかもしれない』 < だったら、原作者から何度もリテイクが出ている時点でおかしいと思わないかね? 普通

あっ!?そういやそれこそ「けものフレンズ」は原作者の意向だったっけ…ハハッ… いや…、無かったよそんな物は…ホント…

どんなにコミュニケーションを取ろうとも、脚本家なんて基本的に、なろうや他の小説サイトに時々出てくる『こうした方が絶対面白くなるから俺の言う通りに書け!』と感想コメで暴れまくる自称アドバイザー(笑)なヤツだからな。最初っから話なんて聞く気があるヤツラじゃないんだよ。そして、こういうヤツに限ってオリジナルを書かせたらウリジナルなものしか書けないっていうw

××「原作改変なんてシェイクスピアもやってるしぃ」

資本主義だからって言うなら、ドラマ制作陣が目指さないといけなかったのは『約束通り原作の忠実再現』と『高視聴率』の両立でしょ。それを鼻から諦めて改変ってのは逃げだろ。それができないなら最初から約束なんてするな

シェイクスピアの脚本も改変されまくってる。そもそも舞台の上で俳優の演技や演出家によって脚本というのは変えられる。ドーバー・ウィルソンがシェイクスピア研究の第一人者とされるのもウィルソンには一研究家としてだけではなく、そうした舞台上の背景知識が備わっているからだ。ここで問題なのは原作者の同意に基づかない改変が加えられたことで、それは修正されたということだ。

>ドラマ制作陣が目指さないといけなかったのは『約束通り原作の忠実再現』と『高視聴率』の両立でしょ。 ―あの脚本家にそんな芸当ができるように見えるならそれはそれで問題だし、そもそも予算や時間がどれだけ確保されてたかも疑問。できないことをやれという根性論は旧日本軍のそれと変わりない。

甘い理想を騙るのは簡単だ。難しいのはそれをどうやって実現するかのはずだ。

この構図って原作付きアニメでも全く同じなんだけど,アニメでは改変によって炎上して製作費の回収もままならなくなるって事例が多数あったおかげで最近は少なくなった印象がある.ドラマでも原作のイメージを壊すような改変は自分たちの首を絞めるってことが広まれば少しは改善する・・・かなぁ?(不信感)

実写化で原作者がとるべき行動は「断る」か、「許可だけ出して、一切関わらない」か。作品が自分の子供のように大切ならば断ったほうがいい。許可するなら、中途半端に関わらずに、好き勝手にやらせてしまった方が、原作者も、ファンも、同人作品程度に見れると思う。そもそも漫画と実写とでは表現方法が違うのだから、実写作品に関して素人なら口を出さない方がいい。

業界の裏側を詳しく説明されても目が滑るわ。言い訳にしか見えないし。「海猿」作者の記事のほうから推測すると、出版社と局側(プロデューサー)の間でなあなあのやり取りがなされた結果、原作者の要望がふわっとしか脚本家に伝わっていないのかな?と。セクシー田中さんの脚本家は最悪な人物だけど、それに対してプロデューサーや出版社のほうは、叩かれなさ過ぎなんだよね。なんで?

テレ東なら原作通りどころか原作者自身も出すだろ孤独のグルメみたく

原作ありきの作品で、技術や資金とか関係なく受け手に伝わる部分はある。同じ「デビルマン」原作でも映画よりファミコンソフトの方が遥かに上質だったように。(個人の感想です)

>むしろ、原作通りにやってるドラマって何があったっけ ←「きのうなに食べた?」でケンジのお客さんのシングルマザーをMEGUMIが演じてて、マザーでなく旦那までいたのは、原作無視の役者に合わせて変えたものだけど、ストーリー上どうでもいい改変だったから気にならなかったな。「セクシ-」は主人公が想いを寄せてる男性をレギュラーAからEに改変するという暴挙。

ところで記事のこの画像、木南晴夏だと全く気づかなかった。ヨシヒコの時や銭ゲバの時とは全然顔が違う!結婚して変わった?

つまりTVってのは金もないし人材もない業界だって事か。そんな所にろくに時間もかけずに映像化させたら失敗が約束されたようなもんだな。絵を描いて表現するアニメ化の方が原作改変が少ないかもね(とはいえ昔のアニメも結構改変あったらしい)

それで金出すスポンサーがいる限りどうせ続けるんだろ。

マスゴミは解体されるべき。少なくとも、特権階級である電波利権は離せ。公共の電波をなんの権利があって犯罪者集団が独占してんだよ。通信帯域圧迫の原因にもなってるし。

ドラマに依存してる癖に原作を蔑ろにするあたり最高にテレビ様だと思う

「原作者がどれくらい自分の作品に思い入れがあるか、その世界観を大切にしているかはよく理解していた」?インスタで原作者さんに個人攻撃した事実があるのに?脚本家の鍵かけたインスタ画像をポストしてる人をいいね稼ぎとか言ってる人いるけど、散々陰湿な個人攻撃をして、それをニュース見た人達にバレたくないから「私は何もしてないも〜ん!」で証拠隠滅してるからなのにね

今じゃ原作者の要望を反映させてたりするからなぁアニメ。ドラマがアニメに追い付けるのは何年後なんすかね。原作者も覚えてない原作ネタを原作者に確認するアニメスタッフの爪の垢でも煎じて飲んでみては? 原作者よりも原作に詳しいアニメスタッフを崇めよ…。

>じゅういちがつ あそこまで原作者が製作にかかわった映像作品知らんわwww

アニメは原作ありきから話が始まるけど、テレビドラマは出演者ありきで原作は二の次扱いという感じ。

作品を改変するにしてもせめて許可は取ったり擦り合わせしなきゃ。作品に対して脚本家は借りる立場故に頭を下げねばならない存在なんだぞ。

何かテレビ側(脚本家も含む)の意見でこういう事情があるんです!って言うのが増えて来てるけど。大抵は「だから、原作者の意見がある程度通らないのは仕方ないんです!」って言う流れになるのは何だかねぇ……。原作者より自分らの都合重視の意見が多すぎやで。さすがに今回みたいに、ドラマ化の許可を出すにあたっての最初の約束事まで破るのは無しやろ。

だから原作者の意向が反映されないのは観客がそれを望まないからって何回言えばわかるんだ。観客の体質自体が変わらない限り業界の体質も変わらん。なろうアニメの文句言ってそれでアニメ業界の体質が変わるか?変わらんだろうが。

まあ、小学館側がきちんと伝えてなったパターンもあるかもなので日テレと小学館が両方説明するべきだよなぁ。

看板ほしいけど、オリジナルでやりたいとか シェークスピアの話を、吾輩は猫であるに改変してだすようなもんだな やりたい放題好き勝手やってる日テレということを理解したほうがいいかと

ドラマじゃなくてアニメなんだけどさ「同人*ゲーな原作なんざやっても居ねえよ」とか放言ブチかましカレーをミートソーススパゲッティーに改編とか全く意味わからんことをわざとやってた監督とか昔居たよな?お偉いTV様が使ってやるんだから涙流して喜んで股開けよ、って体質はとっくに出来上がってるんじゃね?(真月譚月姫って覚えてる?)

テレ東だと……ドラマではないが、アニメで作家*かけた事件ならあるな。  つ【アニメ朝霧の巫女】

「脚本家を叩いて負の連鎖を起こすな!」とか言ってるアホたまに居るけど、『負の連鎖を放置し続けた結果がこの事件』なんだよな そりゃ解体を望むような過激な意見が出るし、実際もう治りようが無いのでそれをやらないといけない段階まで来ている

批判でしめてるからまだマシかもしれんけどさー。それなら初めから原作改変オッケーな原作者さがしゃいいのよ。それで売れてるやつがいない?詐欺よりマシでしょ。詐欺のがマシって考えてるからこうなってるんだろうけど。

あと、『今回の脚本家・相沢友子氏は~~個性が強い主人公が登場する作品を数多く手掛けている。原作者がどれくらい自分の作品に思い入れがあるか、その世界観を大切にしているかはよく理解していたはずである。』俺、この人のドラマみたことないから評価できんけど、よくきく評価から真逆すぎるんだよなあ。

負の連鎖を断ち切るには病巣の切除が必要です。

>「脚本家を叩いて負の連鎖を起こすな!」とか言ってるアホたまに居るけど、『負の連鎖を放置し続けた結果がこの事件』なんだよな ―これを機に原作の改変がなくなって原作に忠実な作品ばかりになると思ってるなら勘違いもいいとこだ。問題の本質の根っこから変えなければ意味がない。

>阿呆松 ―だったら最初から実写化に許可出さなければいい。

「原作改変をしないことが制作許諾の条件の契約であった」という大前提をひたすら無視してあーだこーだ言ってる人が散見されるんだけどなんで?この出来事の核を無視して持論展開したってノイズにしかならんので止めてほしいんだけど。

オリジナルで戦えたり、原作の良さを活かしつつ売れるようにできる力のある人がテレビにおらず、他の原作に頼りつつグダグダになってしまうということでしょ。テレビ局がダメなのに新陳代謝が起きないのがダメなんじゃないの?YouTubeでもAmazonでもいいけど配信したらトップ狙えるんか?そうでもないとこが電波持ったままのがおかしいのでは

>「原作改変をしないことが制作許諾の条件の契約であった」という大前提をひたすら無視してあーだこーだ言ってる人が散見されるんだけどなんで? ―だから最終的には原作者の手に委ねてる。勝手に改変されて作者憤慨の作品なんていくらでもある中でこれは破格の待遇。別に日テレ側を庇うわけではないが、そこを無視するのはなんで?

契約を遵守することが破格の待遇っていう価値観の方にかける言葉はありません。

だったら契約違反を持ち出すこと自体がおかしいだろ。作者は納得の上で参加してるのにあたかも納得してないように印象づけるのはどうなんだ?

このコメント欄にも散見されるが契約違反が原因という割に作者は脚本に参加して満足のいく出来に仕上がってるのに、それがあたかも不満足な出来のまま放映されたような語り方をするのは作者に対しても失礼だろう。問題の本質をただの作者と脚本家の確執という小さな問題に矮小化しているのはお前たちだろうが。

原作者は石ころ以下という発言あったなぁと思ったらもう10年も前のことだった時が経つのは早い

最終的に脚本参加という形になったとはいえ、当たり前の契約遵守がなされるまで、なされた後にも多大な心労を重ねなければならない慣行が罷り通ってたことが問題なのでは?

その心労というのは具体的には何?

人体の限界とかでアクション出来ないとかならまだわかるけど、今回のはなぁ

必死にどう見ても諸悪の根源・戦乱の元凶であるテレビ局の原作*を擁護してる奴が1人いるが、みんな無視して大人な対応だと思った

[>制作者側と原作者側の意思疎通は、プロデューサーと原作者の間でおこなわれることが多いのだ]この時点で、本当か?と思ってしまう。出版社が勝手に話しまとめてきて自分は判子押すことしかできなかったと海猿の原作者が仰っているようですが?

原作*だけが原因なら作家は無数に自*とる。それとも自*てない作家は作品に愛がないとでもいいたいのか?

そもそも漫画家は出版社に連載を任されてる立場。その漫画家が出版社に反抗するのは平社員が社長に逆らうようなもの。だから永野護のような我の強い作家はフリーだし、板垣恵介もモーニングから移籍した。それだけの覚悟がなければ作品というものは守れない。でも作家全員にそれを要求するほど俺も子供じゃない。

契約があろうが原作改変等当たり前という空気の中で一人声を上げれば孤立して煙たがられるだろうし、正当な主張を押し通せたとしても関係者の心中穏やかでないのは脚本家氏のインスタからも推察できる。原作を守るために本来自分の領分でない分野に参加せざるをえず、その結果に対する無力感もあっただろう。その他察するに余りある諸々、他でも十分挙げられていると思うが

というかseathさんは業界の方?問題が起きた時に外野から一斉に叩かれればいろいろ言いたくなるのだけはお察しします

>推察できる ―それは裁判所で有力な証拠になりえるのか?

>原作を守るために本来自分の領分でない分野に参加せざるをえず、その結果に対する無力感もあっただろう。その他察するに余りある諸々、他でも十分挙げられていると思うが ―自分の意思で参加してる以上心労とは言えないだろう。心労というのは作品作りに対する情熱が熱すぎた結果とでもいいたいのか君は?

裁判所で証拠としてどの程度認められるかはなってみないわかりません。裁判が起こるのかどうか知らないけれど、こういうことが業界で二度と起こらないようになってくれる事だけを祈る

本来当たり前に守られているはずだったことを守るために全力で戦わないといけなかったわけだけれど、それを「自分の意思でできたなら本望」で切り捨てるのは人の心を見失っていないか

「当たり前に守られるべき」っていう認識が業界と外で違うのかな。だとしたら確かに変革が必要かもしれない

仮に事情があったとして、お得意の「説明責任」があるのは日本テレビなんだよね。原作者にきちんと伝えて納得してもらわずに、なし崩しで契約無視したならクズだし、もし誤解だとしても人々の理解を得ようとしないなら返ってくる賛否の反応も因果応報でしかない。この件以外も含めたツケが回ってきてる。

御本人は既に亡く、遺書も公開されてない以上、ここでの議論など下衆の勘ぐりだ。裁判中に原告が自*たらそこで裁判は終わりだ。返す返すも残念だが、君たちのように死体を神輿に担ぎ上げてマスコミやTV局を叩く道具にすることだけは絶対に許さん。文句があるなら誰かのためではなく、自分自身のためにやれ。

脚本家は一つのシリーズ終わればまたすぐ違う作品の脚本書くけど、漫画原作者は一つの作品を何年も書き続けるんだよね。作品に対する思い入れがどれだけ重いか察して余りある。

>それを「自分の意思でできたなら本望」で切り捨てるのは人の心を見失っていないか ―ここから先は言葉に気をつけて物を言い給え。それは作者が関わった9話・10話の出来には作者は納得してないと言いたいのか?

>なし崩しで契約無視したならクズだし、 ―だから業界の体質だってそれは。改変されてない純粋に原作に忠実な作品がこの世にいくらあるんだ?

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