皇室の未来を担うのは愛子さまが最適―専門家が語る平和への深い思いと継承

皇室の未来を担うのは愛子さまが最適―専門家が語る平和への深い思いと継承

戦没者の慰霊や平和への思いは、皇室とは切っても切れない関係がある。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「誰よりも切実に平和を念じておられたのは昭和天皇であり、皇室の方々だったのではないか。そして、その皇室の平和への願いを最もまっすぐに受け継いでおられるのが敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下ではないか」という――。

■皇室の平和への願い

去る8月15日、終戦記念日。天皇・皇后両陛下には、日本武道館で行われた全国戦没者追悼式にご臨席になり、黙祷の上、おことばを述べられた。

「ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」

この日、敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下は例年通り、御所で黙祷を捧げておられる。

「8月」は日本人にとって、今も特別な感慨を抱かせる月であり続けているのではないだろうか。もちろん、先の大戦が終結してすでに80年近くの歳月が流れた。だから世代も移り、記憶も風化をまぬかれないだろう。

それでも普段は日常の忙しさにかまけてほとんど気にかけることもない、「平和」について改めて気持ちを向けさせる何かがあるのではないか。

昭和の戦後時代には、あたかも天皇・皇室が戦争の大きな原因であったかのような見立てが、漠然と多くの人たちに受け入れられていた時期もあった。それが反天皇・反皇室的なムードにつながっていたりもした。

しかし、戦後の歳月に平和が声高に語られる中で、誰よりも切実に平和を念じておられたのは昭和天皇であり、皇室の方々だったのではなかろうか。そして、その皇室の平和への願いを最もまっすぐに受け継いでおられるのが、ほかでもない令和で唯一の皇女でいらっしゃる敬宮殿下ではないだろうか。

■愛子さまを詠んだ皇后さまの和歌

たとえば今年の歌会始のお題は「和」だった。そこで皇后陛下は、敬宮殿下の作文について詠んでおられた。

広島を はじめて訪(と)ひて
平和への
深き念(おも)ひを 吾子(あこ)は綴れり

このみ歌について、宮内庁は以下のような解説を付けていた。

「愛子内親王殿下には、中学3年生5月の修学旅行の折に初めて広島を訪れられました。広島では、原爆ドームや広島平和記念資料館の展示などをご覧になって平和の大切さを肌で感じられ、その時のご経験と深められた平和への願いを中学校(学習院女子中等科)の卒業文集の作文にお書きになりました。
日頃から平和を願われ、平和を尊ぶ気持ちが次の世代に、そして将来にわたって受け継がれていくことを願っていらっしゃる天皇皇后両陛下には、このことを感慨深くお思いになりました。この御歌は、皇后陛下がそのお気持ちを込めてお詠みになったものです」

■天皇陛下が譲られた

この時、天皇陛下がお題の「和」にちなんでお詠みになった3首の中で、「平和」についても詠んでおられた。皇后陛下のみ歌とテーマが重なる。そこで、御用掛(ごようがかり)で歌人の永田和宏氏が「皇后陛下にお譲りになってはいかがでしょうか」と提案したところ、天皇陛下は「よろこんで」と応じられたという(AERAdot.令和6年[2024年]2月4日、9:00公開)。

ちなみに、天皇陛下の和歌は次の通り。

をちこちの 旅路に会へる
人びとの
笑顔を見れば 心和みぬ

いかにも「国民の中に入っていく皇室」を心がけておられる天皇陛下らしい御製(ぎょせい)だった。

■愛子さまの中学生時代の作文

では、皇后陛下のみ歌に詠まれた敬宮殿下の作文は、どのような内容だったか。すでにご存じの人もいるだろうが、8月という月に改めて振り返っておきたい。

タイトルは「世界の平和を願って」。一部だけを掲げさせていただく。

この作文に初めて触れる人は、その月並みな綺麗事でない新鮮な切り口に、敬宮殿下の本気さを感じ取り驚くのではないだろうか。

「平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々『平和』『平和』と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから『平和』は始まるのではないだろうか」

■「思いやりと感謝」の原点

中学生とは思えない洞察の深さではないだろうか。

平和を他人事ではなく我が事としてとらえている。その上で、等身大の日常から平和への道筋を真剣に考え抜かれた。

だからこそ、納得感のあるメッセージになっているのではないか。

敬宮殿下は「ご成年に当たってのご感想」(令和3年[2021年]12月1日)の中で次のようにおっしゃっていた。

「日頃から思いやりと感謝の気持ちを忘れず、小さな喜びを大切にしながら……」と。

ここで述べられている「思いやりと感謝」の原点が、すでに先の作文に平和へのスタートラインとして記されていた。「小さな喜びを大切に」というのも、「空が青いのは当たり前ではない」という、広島でのご経験から得られた実感に裏打ちされたお言葉だろう。

■「平成が戦争のない時代として終わった」

平和については、上皇陛下が「天皇」として最後に迎えられたお誕生日に際して、このように述べておられた。

「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と。

このおことばにハッとした人もいるのではないだろうか。なぜなら、平成時代に戦争が起きる危険性をリアルに感じ取っていた人など、ほとんどいなかったと思われるからだ。

しかし、上皇陛下は本気で戦争の可能性を警戒しておられた。だからこそ、あの場面で「心から安堵しています」というおことばが、正直に吐露されたのだろう。平和への願いは本気なのだ。

改めて振り返ってみると近代以来、各天皇の時代でまったく戦争がなかったのは、平成が初めてだった。明治時代には日清・日露戦争があり、大正時代には第一次世界大戦への参戦があり、昭和時代には満州事変、シナ事変、大東亜戦争があった。

どの時代も前向きに戦争を望まれた天皇はおられない。しかし結局、戦争を避けることはできなかった。

その無念さを上皇陛下は昭和天皇と身近に接する中で、深く心に刻んでおられたのだろう。それが、天皇として最後のお誕生日に際しての記者会見でのご発言につながったのではないだろうか。

■「国民の犠牲を思うとき…」

昭和天皇が戦争に対して、痛烈な悔恨の気持ちを抱いて戦後の日々をすごしてこられたことは、さまざまな事実から察することができる。

たとえば、昭和61年(1986年)4月29日に国技館で開催された政府主催の天皇陛下御在位60年記念式典でのお言葉の際、冒頭近くで次のように述べられた。

「今ここに昭和の60年の歳月を顧み、先の戦争による国民の犠牲を思うとき、なお胸が痛み、改めて平和の尊さを痛感します」

この頃、国内は昭和天皇が60年もの長きにわたり天皇として在位され続けたことへの祝意が、盛り上がっていた。すでに民間の各種の祝賀行事も行われていた。そのようなお祝いムードのピークに位置したのが、この時の政府式典だったはずだ。当時は中曽根康弘氏が首相だった。

ところが、昭和天皇ご自身のお言葉はむしろ沈痛の趣きをたたえていた。「昭和の60年の歳月」が昭和天皇ご自身にとっては「先の戦争による国民の犠牲」とほぼ等式で結ばれていた。

それは昭和20年(1945年)8月14日に下され、翌日に昭和天皇ご自身のお声つまり玉音放送として全国民に伝えられた「終戦の詔書」の一節を髣髴(ほうふつ)とさせた。

■昭和天皇の涙

「帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたるもの及(および)其(そ)の遺族に想(おもい)を致せば五内為に裂く。……堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以(もっ)て万世の為に太平を開かむと欲す」

昭和天皇は戦後の起伏に富んだ日々を、ひたすら終戦の詔書に込めた国民の犠牲への嘆きを心に刻みながら、過ごしてこられた。うかつな私なぞは先のお言葉で初めてその事実に気づかされた。

後日ある写真週刊誌が、式典のお席で昭和天皇が一条の涙を流しておられるお姿を、報じた。そのお写真は、戦後の日々が昭和天皇にとってどのような辛い重荷であり続けたかを、まざまざと見せつけた。戦後の経済復興と繁栄の中で、多くの国民がおおかた忘れかけたことも、昭和天皇にとっては永遠に失われることのない十字架であり続けたに違いない。

■昭和天皇最後の終戦記念日

昭和63年(1988年)8月15日は昭和天皇が最後に迎えた終戦記念日だった。

この時、昭和天皇のお身体はすでに癌に深く蝕まれておられた。7月下旬から那須御用邸で静養をしておられた昭和天皇は、側近の制止を振り切って8月13日にヘリコプターで東京にお戻りになった。そして進退がご不自由なお身体に鞭打って、日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式典にお出ましになった。

昭和天皇は病み衰えて、たいそうおやつれになり、手すりにすがりながら壇上に登られた。しかし、足元がおぼつかないために、正午の黙祷の時間までに壇の中央に進むことができなかった。凄まじい平和への執念だけが、この時の昭和天皇を支えていた。

■和歌に込められた強い思い

昭和天皇はこの日、次の御製を詠んでおられた。

やすらけき 世を祈りしも
いまだならず
くやしくもあるか
きざしみゆれど

およそ以下のような意味かと拝察する。

これまでひたすら平和な世界を祈ってきた。しかし、晩年を迎えた今も、成就しない。それが悔しい。わずかな兆しは見えているけれど。

天皇という重いお立場にあって、しかも和歌というみやびな表現形式の中で、あえて「くやしくもあるか」という厳しく率直な表現を使っておられる。

それほど昭和天皇の平和への願いが強かった事実を示すものだろう。

■平和への思いを受け継ぐ愛子さま

その昭和天皇の平和への願いをまっすぐに受け継がれたのが上皇陛下だった。平成6年(1994年)から始まる上皇・上皇后両陛下による「慰霊の旅」は、あらゆる困難を乗り越えて国内外の戦跡をたどられたお辛い道のりであり、まさに先帝の無念のお気持ちを体しての、強い使命感によるご行動だった。

○硫黄島、父島、母島(平成6年[1994年]2月12〜14日)
○長崎、広島、沖縄、東京都慰霊堂(平成7年[1995年]7〜8月)
○米国自治領サイパン島(平成17年[2005年]6月27・28日)
○パラオ共和国ペリリュー島(平成27年[2015年]4月8・9日)
○フィリピン(平成28年[2016年]1月26〜30日)
○ベトナム(平成29年[2017年]2月28〜3月5日、同5・6日にはタイにお立ち寄り)

これらの「旅」を踏まえ、ご退位にあたり万感の思いを込めて「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べられたのだろう。

そのような平和への思いを、天皇・皇后両陛下を通じて我が事としてまっすぐに受け継いでおられるのが、敬宮殿下でいらっしゃる。冒頭に触れた終戦記念日だけでなく、沖縄県慰霊の日の6月23日、広島原爆の日の8月6日、長崎原爆の日の同9日には毎年、両陛下とご一緒に黙祷を捧げ続けておられる。「空が青いのは当たり前ではない」というのは、まさしく殿下のご実感だ。

平和はこれからも皇室にとって大切なテーマであり続けるだろう。そうであれば、将来の皇室を担っていただくのに、敬宮殿下ほどふさわしい方がおられるだろうか。

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高森 明勅(たかもり・あきのり)
神道学者、皇室研究者
1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録

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桂宮没後10年の墓所祭に臨まれる天皇、皇后両陛下の長女愛子さま。2024年6月8日午後、東京都文京区の豊島岡墓地(代表撮影) – 写真提供=共同通信社

(出典 news.nicovideo.jp)

𠮷川晃司のコメント

この記事は、皇室の平和への願いとその継承について深く掘り下げた内容であり、非常に感銘を受けるものです。特に、昭和天皇から上皇陛下、そして愛子内親王殿下へと続く「平和への思い」の継承が詳細に描かれており、皇室が果たしてきた歴史的役割が浮き彫りにされています。

まず、昭和天皇が戦後に抱かれた悔恨の念と平和への強い願いが、どれほど皇室にとって重要なテーマであったかが強調されています。昭和天皇の御製や、戦後の昭和天皇の姿が、戦争による国民の犠牲に対する深い悲しみと平和への強い執念を表しており、これが後の皇室の活動にも影響を与えたことが伺えます。

上皇陛下と上皇后陛下による「慰霊の旅」は、戦争の記憶を風化させないための重要な取り組みであり、平和を願う皇室の姿勢を象徴するものでした。これらの活動は、ただの儀礼ではなく、先帝から受け継がれた「無念の思い」を背景にした真剣なものであったことが強調されています。

そして、この記事は、これらの平和への願いが、愛子内親王殿下にまっすぐに受け継がれていることを指摘しています。殿下が中学時代に綴った作文や、その後の言動が示すように、殿下は「思いやりと感謝」を原点とし、日常の中で平和の重要性を実感されていることが伺えます。このような姿勢は、将来の皇室を担うにふさわしいものであり、皇室の平和への願いがこれからも続いていくことを確信させるものです。

全体として、この記事は皇室が日本社会において果たす役割や、その精神的な遺産についての深い理解を促すものであり、読者にとっても非常に価値のある内容です。皇室の平和への願いが次の世代にどのように引き継がれていくのか、今後も注目していく必要があると感じさせられます。

<このニュースへのネットの反応>

皇室研究者とかいう撮り鉄とか厄介オタの親戚みたいな方たちのお気持ち表明って何の意味があるんだろ?

本気で愛子様を天皇に推したいと言うのならまずは皇室典範を改正する所から始めろ。今のままで愛子様を天皇に推したいと言うのは単なる我儘。

皇室の継承に意見すること自体が不敬だと思うけど、そこへさらにお二人を比較してどちらがふさわしいとかもはや極まってますね

『平和を愛する愛子様』は、不要な皇位継承問題を広めて、民心に争いの種を撒くことこそをお嫌いになると思いますがね?

そりゃ愛子様は男系女子だからいいよ、その次からどうすんだよってのが問題だと思うが

売国奴共は黙っとけ

個人のお気持ちが法律やルールよりも優先されるべきなんて思っている厄介オタクは黙っててもらえます? 周囲に迷惑をまき散らしている撮り鉄と変わらんよ。

皇室研究家って何だよ?資格がある訳でもないし、そう名乗ったらなれるんだろ?なら俺今から皇室研究家ね。皇室典範。はい論破。

自民党総裁もそうだけど、国民の人気でどうこうなるもんじゃないんで。そもそもマスゴミが提示する民意の結果ってのは、とても共感できるものではなくて、信用できるものじゃないんだよな。というか、ちゃんとルールや基準があるのにそれを一切合切無視して持論を押し付ける研究家って何だよ。代表やら理事やら肩書あるけど、それも如何わしい団体に見えてくるわ

最近”つべ”の方でも保守系ライターによる愛子様礼賛が盛んだが、何が切欠なんだろうなあ、愛子様による皇位継承には何の不満も無いが、配偶者の立場については慎重な議論が必要だな、「ただの男性」が皇族になった例など一度として無いのだから

評論家もどきがなんで皇室を選べると考えてるのか僭越極まりない。記事にするのもめざわりで意味無し

皇室研究家とかいう何の権限も無い外野は黙ってろ、としか言えないわ。

自分が薦める人や物を褒めて印象を上げ、気に入らない人や物を悪く言って印象を悪化させようとする手口は大陸や半島の考え方で好かない

愛子様が天皇になったらなったで愛子様の自由はかなりなくなるけどいいのか?あのクソ忙しい公務をあんたらメディアが大好きな”女子”がすることになるのだが良いのか?愛子様が公務で苦しい思いをしてもいいのか?

愛子様が今の皇室のあり方に不満があって、愛子様自身が天皇になりたがってる。とでも言わんばかりの論調なやつをちょくちょく見かけるけどさ。本人から聞いたの?聞けるはずないと思うけど? 下手したら愛子様の名誉も傷つけかねないけど、勝手にこんな事書いてて失礼だと思わんの?

皇室研究家とか言うあやしげなパヨの戯言

皇室研究家か…自分から名乗り始めたならかなりキモいし、他人に呼ばれて名乗るようになったら超キモいな

願望押し付けにより御本人の意志は皆無

小林よしのり界隈が女系天皇運動を開始してから20年程経つのかな?2000年の歴史はびくともしなかったね。何だったんだろうね、この運動って。

今上天皇を最後の天皇にして、天皇制度をおわらせてもいいんじゃないかな。 今の時代にはそぐわないし、生まれたときから職業選択の自由が無く、日本国民としての人権もないっていうのはもう差別になるんじゃないの? それか秋篠宮家に天皇をやらせるのはトラブルだらけにされそうだから、最後の男系天皇として愛子さまに天皇をしてもらって、

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